HOME → 

集合住宅の植栽管理

暮らしのすぐそばにある緑を、いつまでも美しく


マンションや集合住宅にとって、植栽は単なる「飾り」ではありません。

エントランスを彩る樹木や、敷地を囲む生垣、季節の花を咲かせる草木。

そこに緑があることで、建物の印象は柔らかくなり、住む人に季節の移ろいや安らぎを感じてもらうことができます。

一方で、植物は生きています。

伸びすぎた枝をそのままにしておけば、通行の妨げになったり、建物や設備に影響したりすることもあります。

だからこそ、集合住宅の植栽には、「植えること」だけでなく、「育て、整え、守っていくこと」が大切です。

三田植木では、集合住宅の植栽管理を年間を通してお手伝いしています。

HOME → 

川崎市まちの樹50選

みなさんも、ご近所の「まちの樹」を探してみませんか?

川崎市では、「緑の基本計画」に基づき、緑豊かで暮らしやすいまちづくりを進めています。

1973年からは、歴史や命の大切さを伝える貴重な木を「保存樹木」として指定し、大切に守ってきました。

その後、2000年に条例が整備され、新たに「まちの樹」という制度がスタート。

市民のみなさんから、地域で親しまれている木や、伝承・歴史を持つシンボルツリーを募集し、専門家などによる選定を経て、2003年に50本が「まちの樹」に選ばれました。

地域で愛され続ける木々を守りながら、“緑あふれる川崎”を目指すとともに、ふるさとへの愛着を育んでいこう――。


そんな思いを込めてまとめられたのが「川崎市まちの樹50選」です。

川崎市HP 川崎市まちの樹50選
https://www.city.kawasaki.jp/530/page/0000018370.html

HOME → 

高木の伐採作業

近年の温暖化や異常気象(猛暑・豪雨)によって木が弱り、そこに病害虫が取り付いて被害が拡大するケースが増えています。

猛暑・渇水時は散水などのケアが重要です。


木が枯れる原因は、病原菌、害虫、環境の変化、人為的ストレスなど、複数の要因が考えられます。

植栽してから47年を経過し寿命を迎えてしまいました。

幹の中心は空洞になっていて予想より痛んでいました。

このまま放置すると倒木の恐れがあり危険です。

特に弱っている木は危険なのでクレーンで釣り上げた状態で作業を行います。


HOME → 

川崎市まちの樹50選・川崎大師平間寺「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号2

川崎区・川崎大師平間寺のクスノキ(楠)

日本屈指の厄除け霊場川崎大師平間寺

名称: 金剛山 金乗院 平間寺(通称:川崎大師)
御本尊: 厄除弘法大師(やくよけこうぼうだいし)
宗派: 真言宗 智山派(総本山:京都東山七条・智積院)
開創: 大治3年(1128年)
開基 / 功徳主: 尊賢上人(そんけんしょうにん) / 平間兼乗(ひらまかねのり)

奇跡の引き揚げ劇から始まった「厄除けのお大師さま」

成田山新勝寺、髙尾山薬王院と並び、真言宗智山派の「大本山」として尊ばれる川崎大師。

その歴史は平安時代末期、ひとりの武士の苦難から始まります。

無実の罪で故郷を追われ、川崎で漁師として暮らしていた平間兼乗。

彼が42歳の厄年を迎えたある夜、夢枕に高僧が立ちました。

「かつて唐で自ら彫り、海に流した像がある。早く網で引き揚げ、供養しなさい。さすれば災厄は転じて福徳となるであろう」

お告げ通りに海へ網を打つと、まばゆく光り輝く弘法大師の木像が引き揚げられました。

兼乗がささやかな草庵で毎日欠かさず供養を捧げていると、やがて諸国を旅していた高野山の高僧・尊賢上人が立ち寄ります。

由緒に深く感動した上人は、兼乗とともに寺院を建立。兼乗の姓から**「平間寺(へいけんじ)」**と名付けました。

その後、お大師さまのご加護により兼乗の無実の罪は晴れ、見事に故郷へ帰ることができたのです。

将軍も参詣! 江戸っ子を魅了したパワースポット

日本に真言密教をもたらしたお大師さまは、「私の姿(形相)を見る者、教えを聞く者を決して見捨てない」という強い誓願を残されました。

現代を生きる私たちにとっても、大きな心のよりどころです。

境内の楽しみ方&見どころ

大本堂を中心とした堂々たる七堂伽藍はもちろん、戦災を免れた貴重な「稲荷堂」など、境内にはご利益あふれるスポットが点在しています。

HOME → 

集合住宅の植栽管理(秋)

年間を通して、緑のある暮らしを支える

集合住宅に限らず、植栽は一度きれいにすれば終わりではありません。

植物は毎年成長し、季節が巡るたびに姿を変えていきます。

だからこそ、年間を通した計画的な管理が必要になります。

剪定や刈り込み、除草、施肥、病害虫の確認など、必要な作業を適切な時期に行いながら、植栽の状態を維持していきます。

長く住み続ける場所だからこそ、「今年きれいにする」だけではなく、「これからも美しい緑を残していく」

私たちは、そんな植栽管理を目指しています。

HOME → 

高木の丈詰め作業

高くなりすぎた木を、安全に整えるということ


庭や敷地に植えた木は、年月とともに少しずつ成長していきます。

植えたときには手の届く高さだった木が、いつの間にか屋根を越え、電線に近づき、隣家や道路へ枝を伸ばしている。

そんなときに必要になるのが、高木の丈詰め作業です。

しかし、高くなりすぎた樹木を低くする作業は、一般的な庭木の剪定とは大きく異なります。

高所での作業となるため、非常に危険を伴う作業です。

「少しだけ高さを下げたい」

「自分で切れそうだからやってみよう」

「脚立に乗れば届きそう」

「一本だけだから大丈夫」

「少し枝を切るだけなら自分でもできそう」

そう思ってしまう気持ちは分かります。

しかし、高い木の剪定では、作業中の転落や枝の落下など、思わぬ事故につながる可能性があります。

また、剪定した枝が予想以上に重かったり、木のバランスが変わったりすることもあります。

高木の剪定は、一般的な庭木の手入れとは別の作業として考えることが大切です。

「危ないかもしれない」と感じた時点で、無理をせず専門業者へご相談ください。

HOME → 

緑化かわさきフェアの経済効果

川崎市制100周年記念事業「第41回全国都市緑化かわさきフェア」の経済効果について川崎市から発表がありました。

・2024年秋(10月19日〜11月17日)30日間の来場者数は94万人
・2025年春(3月22日〜4月13日)23日間、来場者数は68万人

神奈川県内への経済波及効果は計135.2億円で、このうち川崎市内への波及効果は88.7億円

「直接効果」は69.4億円、直接効果を受け経済活動が活性化するなどの「間接効果」は19.3億円。

県内や市内に経済波及効果をもたらし、「地域経済の活性化に大きく貢献した」


全国都市緑化かわさきフェアにおける取組と今後のみどりのまちづくりに向けて ⬅⬅外部リンク【川崎市HP】

川崎市市制100周年記念事業・全国都市緑化かわさきフェア2024秋 ⬅⬅

全国都市緑化かわさきフェア2025春開催 ⬅⬅

HOME → 

高津区二子・二子二丁目公園「ヒマラヤスギ」

川崎市まちの樹50選・番外編

大貫家の記憶を伝える一本のヒマラヤスギ

川崎市高津区二子の住宅街に、こぢんまりとした二子二丁目公園があります。


現在は地域の人々が憩う身近な公園ですが、ここはかつて、二子を代表する豪商・大貫家の屋敷があった場所。

大貫家は、江戸時代に屋号を「大和屋」と称し、幕府や諸大名の御用商人として栄えた豪商です。

公園の一角にそびえる大きなヒマラヤスギが、往時の屋敷の面影を今に伝えています。

大貫家は、歌人・作家として知られる岡本かの子の生家

公園には「大貫家の人々」と題した川崎歴史ガイドの案内板も設置され、二子の地から羽ばたいた文学者・芸術家たちの足跡を伝えています。

かの子は旧姓を大貫かの子といい、この二子の地で生まれ育ちました。

その息子が、後に日本を代表する芸術家となる岡本太郎です。

また、大貫家には文学の才能に恵まれた人物がもう一人いました。

かの子の兄、大貫雪之助(晶川)です。

雪之助は若くして文学の道に進み、谷崎潤一郎らとともに文学活動を行うなど、将来を大きく期待された青年でした。

しかし、その才能を十分に開花させることなく、1912年(大正元年)、25歳という若さでこの世を去っています。

その墓碑は、現在も近くの光明寺境内に残されています。


こうして見ていくと、二子二丁目公園は、単なる住宅街の公園ではありません。

現在の公園は小さな空間ですが、そこに立つ一本のヒマラヤスギは、かつてこの場所に広がっていた大貫家の屋敷を想像させてくれます。


HOME → 

川崎市まちの樹50選・東林寺「イチョウ」

川崎市まちの樹50選・指定番号39

麻生区上麻生・東林寺の公孫樹(イチョウ)

境内に立つ樹齢300年以上ともいわれる大銀杏

幾世代もの人々を見守ってきた、東林寺のシンボルともいえる存在です。

東林寺・麻生山修廣寺

東林寺は曹洞宗の寺院で、その歴史は関ヶ原の戦い以前にまで遡ると伝えられています。

山号を麻生山といい、開山は修廣寺4世の月秋文伯大和尚。慶長4年(1599年)寂。

静かな境内に足を踏み入れると、長い年月を感じさせる本堂が迎えてくれます。

本堂内陣には、堅固な須彌壇(しゅみだん)が設けられ、薬師如来立像、釈迦如来像、十一面観音像などが安置されています。

寺から始まった、地域の学び

東林寺の歴史を語るうえでもう一つ興味深いのが、地域の教育とのつながりです。

明治5年(1872年)、新しい学制が公布されると、この寺に「上麻生学舎」が開かれました。

寺院が地域の信仰の場であるだけでなく、子どもたちが学ぶ場所としても役割を担っていたのです。